過去の展覧会 基本情報 出品作品 イベント 見どころ
「はなかたち ひとかたち」とは、島田章三が1983年に制作した油彩画の題名です。室内の女性、キュビスム的視点で構成された卓上静物と形象化された花。それらがシックな色調でまとめられた画面には、まさに島田の世界が凝縮されています。このタイトルのように、日常の人や物のかたちを捉え、カンヴァスに表現し続けた60年でした。
本展は2016年11月に逝去された画家の三回忌に際し、東京藝術大学時代から晩年まで、当館の所蔵作品から選んだ島田章三の作品と、島田を巡る画家たちの作品を合わせて構成し、その画業を回顧するものです。
島田章三 略歴
- 撮影:中川幸作
- 1933神奈川県横須賀市に生まれる
- 1954東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学
- 1957国画会展に初出品し国画賞を受賞
- 1961国画会会員となる
- 1966愛知県立芸術大学に赴任
- 1967第11回安井賞を受賞
- 1968愛知県在外研究員として渡欧
- 1992メナード美術館にて「島田章三展」開催(’00にも)
- 1999日本芸術院会員となる
- 2001愛知県立芸術大学学長に就任
- 2004文化功労者となる
- 201611月26日 逝去
展示構成 左側のタイトルをクリックすると詳細が表示されます
- Ⅰ 横須賀と名古屋
- Ⅱ かたちびと
- Ⅲ パリ 1968-69
- Ⅳ 花と静物
- Ⅴ 島田章三をめぐって
- ❖ は島田章三の言葉
Ⅰ 横須賀と名古屋
- 《灯台の在り方》1993
島田章三は、1933年、神奈川県浦賀町(現在の横須賀)に生まれました。東京藝術大学で油彩画を学び、在学中に国画賞を受賞するなど早くからその才能をみせています。
そんな島田の画家としての土台は、幼い日から多感な青年時代までを過ごした故郷でつくられました。1966年には、新設となった愛知県立芸術大学に赴任し活動拠点を愛知に移します。以降、地元の芸術や文化の発展に貢献し、50年を過ごした名古屋は第二の故郷となったのです。
横須賀と名古屋は、島田の原風景として、身近な地として、作品に登場しています。
- 《18番地》2002
❖「18番地」は我が家の番地。長久手の芸大官舎から移り、30年近く住んだ。
玄関のモダンな造りをイメージ源として創作した絵。
Ⅱかたちびと
- 《室内にある彫刻》2012初公開コレクション
1968年から69年にかけ、島田はパリに留学します。ピカソ、ブラック、レジェといったキュビスムを追求した巨匠たちの芸術に触れ、「キュビスムを日本人の言葉(造形)で翻訳する」として、自らの制作にその答えを見出し、「かたちびと」というテーマを生み出しました。幾何学的に構成された日常の情景のなかに人物を描き出し、キュビスムを日本人的な感性でとらえようとしたのです。
1973年頃より登場した「かたちびと」は、造形とは何か、絵画とは何か、を問いかける画家の終生のテーマとなりました。
- 《王朝の人々》1970初公開コレクション
❖ 自分の体を通して物を見つめ、描くことの喜びを感じる、ということを信条にしている。そして形態を空間の中で如何に把握するか、それについて色をどのように受けとめるか、が《王朝の人々》の裏付けになっているつもりである。
- 《磯遊び》1994初公開コレクション
❖ 知多半島(愛知県)を旅行した時の印象。この絵では空間をとき放して伸びやかにさせることをしてみたかった。
Ⅲ パリ 1968-69
- 《寺院の丘》1971初公開コレクション
1967年、島田は若手画家の登竜門といわれた「安井賞」を受賞しました。一躍時の人となりますが、その翌年には1年間パリに留学します。日本での喧騒から離れた島田は、美術館を巡り、街角をスケッチし、近代絵画の担い手となった画家たちの多彩な美術表現に触れました。
パリの街の美しさに感動するとともに、日本と西洋の生活様式や思想の違いから得られる感覚は、島田にパリがキュビスムの生まれた地であることを実感させました。留学はその後の制作の大きな転機となったのです。
- 《古い街》1968
❖ 僕がパリに留学したのは1968年だった。この街は何て美しい人工的な街なのだろうかと改めて驚いた。画家がこの街を好んで絵にするのはあたりまえだ。
Ⅳ 花と静物
- 《ミモザの頃》2000
1970年代に入り、島田の作品には静物画が多く登場するようになります。
それらは花や花瓶、カップや皿といった画家の身近なモティーフが選ばれました。
画家・ブラックが好きだという島田は、その影響から「人間の手の届く辺りにモティーフを求めてみたい」と考えます。そして、空間とそこに存在する形との関係を身近なもので追求していったのです。
これまでも描かれていた静物画ですが、「かたち」を意識するようになってからは画面の構成に重点をおく島田の本領が発揮された作品となりました。
- 《画集のある静物》1975
❖ 本のタイトルやタバコの箱をコラージュとして使った。その英文字や色を出発点に、黒をつけて画面を成り立たせていった。スパッとできた、自分でも好きな絵の一つ。
- 《セベリーニに捧ぐ》1984
❖ 父親が携わった船の模型が入っていたボックスを、額代わりに使って、絵を描こうと思い立ってつくったもの。自分でベニヤ板をカッターナイフで切って、額に合わせた。
セベリーニは、イタリア未来派運動の画家。自分が生まれる前に、こんなに斬新な仕事をした人がいたということへのオマージュである。
Ⅴ 島田章三をめぐって
- 《植物点在》1994
「自分は良き師、良き友に恵まれた」と島田は語ります。東京藝術大学では3年次に山口薫、4年次と大学院時代は島田に多大な影響を与えた一人である伊藤廉に学んでいます。
画家としての活動の中心となった国画会では、梅原龍三郎、香月泰男ほか個性豊かな先達の作品に学びながら頭角を現していきました。
また、国画会を拠点としながらも島田は、奥谷博、宮崎進、大沼映夫とともに「私が私のスタイルです」展('90、'92、'94)を開催するなど、同時代の画家たちと切磋琢磨し、グループ展を通して活動の幅を広げていったのです。
- 《自画像》1964
❖ 31歳になった年の自画像。鉛筆で描き消しゴムで消すことで調子づけをしたり、パステルを加えたりしながら、思いを入れたデッサンになっている。
アンフォルメルの影響を受けた作風から、具象に戻りつつあった頃。鏡に映った自分を見ながら、形態の把握をし直そうとしていた。サインの「章」は、岸田劉生を意識している。
島田章三と島田鮎子
- 2007年 パリにて
島田がその存在を最も意識した画家が、妻であり洋画家の島田鮎子でしょう。島田の作品やその制作を一番身近で見つめ続けた人でもあります。
大学の同級生であった二人は1962年に結婚しました。ともに国画会会員ですが、愛知県立芸術大学学長をはじめ多くの要職を歴任し、芸術院会員であった章三に対し、鮎子は公職には就かず、個展での発表を中心として制作活動を続けてきました。画家としての活動スタイルが違うことで互いを支え、画家としての活動を互いに認め合い、同じ絵の道を究めようと共に歩んだ二人でした。
メナード美術館と島田章三
愛知県立芸術大学への赴任により愛知を拠点にするようになった島田章三は、名古屋市内で個展をたびたび行いました。
同市に本社を持つメナード化粧品はその作風に着目して収集を始め、島田の初期から晩年まで概観できるコレクションが形成されました。同時に、島田は創業者・野々川夫妻との交流を通し、美術作品の収集に画家らしい視点での助言を与えています。
メナード美術館では1987年の開館以来、2度の個展開催や特集展示、企画展を通して島田作品の数々をご紹介しています。
- 《彫刻がある空間》2012
❖ 開館以来、何度となく訪れたメナード美術館だが、常設展示され守護神ともなっているマリノ・マリーニの彫刻を主題に大作に挑戦した。
※ 展示内容は変更になる場合がございます。ご了承ください。