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内容は作品の写真です。
1913(大正2)頃
画布、油彩
80.4×116.7cm |
水戸の旧藩士の家に生まれる。二人の兄は軍人志望であり彝も次兄と同じ陸軍幼年学校に入学するが、卒業頃までに肉親のほとんどを失う一方、健康面にも恵まれず肺結核を発病。その転地療養中水彩画に親しんだことで画家を志す決意をし、白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所に学ぶ。この間知り合った中原悌二郎(彫刻に転じる、大正10年病没)は生涯の親友となる。
明治末、文展で連続受賞を得るなど順調な制作活動を展開する。新宿中村屋のアトリエに移ったのは、このころのことである。
中村屋はパン屋を営むかたわら、主人の相馬愛蔵と妻黒光が若い芸術家を庇護したため多くの画家や文学者たちが集い、「中村屋サロン」と呼ばれていた。
《婦人像》のモデルは相馬夫妻の長女、俊子である。彝は女学校に通う明るく健康美あふれる少女に創作意欲を掻き立てられたのであろう。
大正2~3年にかけて俊子をモデルとした作品を頻りに描いているが、それらの多くは官能美に満ち、ルノワールへの傾倒を見出すことができる。やがて俊子に恋愛感情を抱くようになった彝は求婚するが、彼の健康状態を理由に両親によって拒絶され、中村屋のアトリエを出ていくのである。
以後は悪化する病状との闘いではあったが、帝展で賞賛を得た《エロシェンコ氏の像》など優れた作品を遺し、大正13年末喀血のため37歳の若さで世を去った。 |