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内容は作品の写真です。
1930(昭和5)
画布、油彩
84.0×53.2cm |
大阪の商家に生まれた楢重は東京美術学校で学び、再び大阪に戻る。大正8年《Nの家族》で二科展に入選、樗牛賞を獲得した後は着実に評価を得、また信濃橋洋画研究所を設立して関西洋画界の発展にも力を尽くした。
生来、病弱であった彼は戸外で制作することを苦手とし、作品のほとんどが人物像と静物画で占められている。特に短期間のパリ留学の後、芦屋にアトリエを構えてから没するまでの5年間に精力的に裸婦の追求がなされた。当時、裸婦は日本の洋画において非常に不自然な画題であった。胴が長く足の短い日本人女性の体型や、日常裸体を見せない生活の中で如何に西洋の規準に捉われない独自の造形的追求を行なえるかが楢重の課題であった。寝台やソファに横たわるポーズをとることで身体な短所を巧妙に避けるのみならず、逆にその個性を活かし、魅力的な裸婦像へと変化させた。またそこに装飾的に織物を配することで西洋絵画のオダリスクのように日常生活を遊離した空間を創造しようとしたとも考えられる。
《立てる裸婦》は、これまでの横臥像から一転して、真正面から裸婦と向き合った作品である。赤と青の織物が画面を引き締め、テーブルと壁の斜めの線が平面的な画面に動きを与えている。裸婦のフォルムは究極まで形式化され表情も簡略化されているが、滑らかな筆致が肌の輝きと量塊を一層的確に捉え「裸婦の楢重」としてのひとつの到達点を示している。 |